(googlemap)


                    


「宮園」その町名の由来

 思井福祉会館わきの小道をたどり、急な階段を上ると、うっそうとした小高い森の台地に「熊野神社」があります

   

  繁茂した木々の間から「宮園団地」の整然とした街並みが望見できます。



昭和48年以前、宮園団地一帯は、総面積26万7000平方メートルという広大な水田とわずかな畑が広がる、近在でも有数

の田園地帯でした。現在の街並みからはそうした風景は想像もできません。


(昭和36年ごろ今の宮園2丁目付近)

 ただ団地の周辺に今でも散在する小規模の水田から、わずかに往時を偲ぶことができるばかりです。

 宮園という町名が誕生するきっかけは、実はこの思井の熊野神社が大いに関係しているのです。

 熊野神社の本宮はご存知の通り紀州は和歌山県にあります。

思井に分祀された時期ははっきりしませんが、3、4百年前とも言われています。

 思井の鎮守神として村人の信仰を集め、五穀豊穣・平和安穏を願い、大切に守られてきました。

 昭和48年5月、熊野神社の前庭ともいうべき、下方の広大な水田を埋め立て、東急不動産の手で住宅建設工事が始まりました。

そして昭和50年11月から分譲が開始されました。東急ニュータウンの誕生です。東京からも近く、森と川と池のある

、緑豊かな環境が人気を呼びました。

 
(昭和50年造成中の宮園)                      (平成17年の宮園)





(明治時代の地図 明治22年に八木村に統合される前))

 「宮園」という町名が決まったのは、分譲が始まる2か月前の9月のこと。

当時、流山市内でも珍しい大規模な団地・コミュニティの誕生ということで、公募によって選ばれました。

 水田一帯は熊野神社のいわば庭であり、人々の生命をはぐくむ、自然豊かな五穀豊穣の園でもある、ということから

、御宮様の園、つまり「宮園」と名付けられました。

 先祖代々、水田を受け継いできた地主さんたちにとっても、鎮守神・熊野神社にゆかりのある「宮園」の名は、歓迎

される町名だったであろうことが想像できます。

 第一期の分譲開始から34年。

1丁目から3丁目で約1000世帯の人々が、熊野神社に守られて、安寧に暮らしています。

時代の流れとともに、流山市の環境も大きく変わりました。森の高台から前庭を静かに見つめ続けてきた熊野神社は

、宮園周辺の変容ぶりをどのように感じているでしょうか。           
 (文責・小野田満雄。平成21年9月記)
                                             
 (写真の一部は宮園三十年のあゆみからです)

2006年発行 宮園三十年のあゆみから

 ウイキペディア 八木村から
 1873年(明治6年) - 大区小区制施行の際、駒木、駒木新田、初石新田、野々下、大畔新田、十太夫新田および市野谷の各村は第12大区7小区に、思井、前平井、古間木および後平井の各村は第12大区6小区に、前ヶ崎、名都借および向小金新田は第12大区5小区に属する。
  • 1878年(明治11年) - 郡区町村編制法施行の際、以下の単位で村連合となる。
    • 前平井村、思井村および後に流山町となる西平井、鰭ヶ崎の各村
    • 野々下村、古間木村、長崎村、市野谷村、後平井村、芝崎村および後にほかの村となる中村
    • 駒木新田、駒木村、大畔新田、十太夫新田、青田新田、初石村および後に新川村となる大畔村
    • 向小金新田、前ヶ崎村、名都借村、後に小金町となる東平賀村およびほか2村
  • 1884年(明治17年) - 以下の単位で、同一戸長役場所轄となる。
    • 十太夫新田、初石新田、大畔新田および後に新川村となる桐ヶ谷、大畔、北、下花輪、谷、小屋、上新宿、上新宿新田、上貝塚、南の各村
    • 前平井村、思井村、野々下村、古間木村、長崎村、市野谷村、後平井村、芝崎村、駒木新田、駒木村、初石村
  • 1889年(明治22年)4月1日 - 東葛飾郡野々下、古間木、思井、芝崎、前平井、後平井、長崎、市野谷、名都借、前ヶ崎、向小金新田(東平賀村への飛地を除く)、大畔新田、駒木、十太夫新田、駒木新田、初石新田、青田新田(十余二村への飛地を除く)の各村が合併し、東葛飾郡八木村となる。
  • 1911年(明治44年)5月9日 - 大字初石新田に東武鉄道野田線初石駅が開業。

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